ある日、いつものように千歳が弟を泣かしていると、弟が悲痛な声で兄にこう言ったのでした。
千歳の家は四人家族です。
両親と、千歳と、弟の四人家族で、まあ特に特徴的なところもない、ごく普通の構成ですね。
そんなごく一般的な構成の四人家族にも、四人ではなく三人家族の時代がありました。それはそうです。兄弟ですから、双子でもない限り時間差で生まれてきます。千歳が生まれてから2歳と10ヶ月ほど経ったころ、弟が家族の一員に加わり四人家族が完成しました。
ところで、千歳のもっとも古い記憶のひとつにこういうのがあります。
場所は、運転中の軽自動車。運転席に父親が座り、助手席に母親が座っています。千歳は後部座席を独り占めで、窓の外の丸いお月様を眺めていました。
そんな時、おもむろに母が言いました。
「千歳」
「なあに?」
「弟か妹欲しい?」
「……うん! ほしい!」
あの時、「欲しくない」ときっぱり言っていれば、弟は果たしてどうなっていたのでしょうか。今更ながらに黒い想像をしてしまいましたが、このころの千歳は無邪気そのもの。弟か妹は本当に欲しかったので、少しわくわくしながら答えたものでした。
ちなみに、千歳が言葉をしゃべるようになったのは、平均よりはじゃっかん遅くて、2歳を過ぎてからと聞いています。そこから考えていくと、母が千歳に兄弟が欲しいか聞いてきたのは、事後承諾だった可能性が高くなり……まあ、あんまり考えるとなんとなくブルーな気分になってくるのでこの話はこのくらいにしておきましょう。
そんなわけで、千歳にも弟ができました。
さて、千歳にとっての弟は、新しくできた子分といったところでした。毎日のように泣かしていた記憶があり、今思うとさすがにちょっと反省モードに入ります。弟の性格がちょっとゆがみ気味なのは千歳が原因である部分が大きいのかもしれません。まあ弟には、これも長い人生をたくましく生きていくための試練だったのだと思って、あきらめてもらいたいところです。
そんな感じで毎日鬼兄に泣かされ続けてきた弟も、たぶんしばらくは「お兄ちゃんとはこういうもんなんだ」と、漠然と思っていたかもしれませんが、幼稚園に通うようになり、徐々に社会のシステムや常識を習得していくにつれ、だんだんいらない知恵をつけ始めたようでした。
「どうも普通のお兄ちゃんとはけっこう優しいものらしい。うちは違うけど」
「どうも普通のお兄ちゃんはおもちゃを貸してくれたりするらしい。うちはむしろおもちゃは取られるけど」
そんなことでも考えていたのでしょうか。ある日、いつものように千歳が弟を泣かしていると、弟が悲痛な声で兄にこう言ったのでした。
「お兄ちゃんなんて、ぜんぜんお兄ちゃんっぽいことしてくれんやか! お兄ちゃんなんか、お兄ちゃんじゃない!」
そう言って、うずくまり、泣き喚く弟に千歳は思いました。
こいつ、なんて生意気なことを言うんだろう。
ものごとに二人以上の人格がかかわると、真実もまた単純なものではなくなっていきます。
この場合、弟にとって兄はなんて酷い、鬼のような存在にも思えていたかも知れませんが、兄にとって見ると、弟には大事なおもちゃを壊されたり、大事なおもちゃを噛まれまくって歯跡や唾液だらけにされたり、おやつを取られたりと、それなりに制裁を行う理由というのはあったのでした。
そんなある日――千歳が幼稚園の年長組くらいの頃でしょうか。千歳が大事にしていた、クリスマスプレゼントにサンタさんからもらったロボットを、弟が完膚なきままに破壊してしまったことがありました。千歳が、怒りに震えながら弟を殴ってると、母親がやってきて千歳を打ち据えました。
「お兄ちゃんやろ! どうしてもっと弟に優しくできんの!」
「だって、こいつがぼくのだいじなロボットを……」
泣きじゃくりながら千歳は言い訳しましたが、母は聞いてくれません。
弟は母の影に隠れてこっちを見ています。母に叩かれ、大事にしていたオモチャも失った千歳は、もうただ、泣くしかありませんでした。
しばらくして、弟がまだ泣いていた千歳に、
「おにいちゃん、ごめんね」
と言いました。
「…………」
はて、そのとき千歳が弟になんと言ったのか、記憶がまったく抜けてしまっていますので、ここに書くことは出来ません。ひょっとしたら何も言わなかったのかも知れません。
このときの事を千歳は許したのでしょうか。今となってはわかりませんが、たぶん次の日からは、また普通に、兄弟は毎日を過ごし始めました。
こんなふうに、千歳の記憶を少し掘り返すだけでも、兄弟の仲が非常に悪かったということが窺い知れるのではないかと思うのですが、最近母にあらためて昔の兄弟仲を確認してみましたところ、意外な答えが返ってきました。
「あんたたち兄弟は仲良かったよ」
え、まじで。
「あんたにはよく弟を幼稚園まで迎えに行ってもらったし、私が仕事から帰ったら、あんたたちはいつも四角いコタツの一辺だけに二人で仲良く入っちょったよ。あの子はいっつもお兄ちゃんにべったりやったよ」
ぜんぜん記憶にありません。
あるのは、けんかした記憶ばかりです。
しかし、実際に仲が良かったのなら、どうして千歳の記憶にはそういう仲の良かった記憶は残っていなくて、けんかしたり泣かしたりした記憶だけが強烈に残っているのでしょうか。
ひょっとして。ある仮説が千歳の脳裏に浮かびました。
ひょっとして、けんかをしたり泣かしたりしたことに、千歳は幼いながらも強い罪悪感を感じていたのでしょうか。
罪悪感が、『けんか』の記憶を強烈に記憶にとどめ、その他の記憶は年月を重ねるごとに普通に薄れていきます。そうして今に至って、結果的に『けんか』の記憶だけが千歳の過去に対する記憶の大部分を占めてしまっている――そういうことなのでしょうか。
だとすると、千歳は非常にもったいない――悲しい記憶の残し方をしていたものです。
だって、人間は常に記憶を蓄積することによって今に至っているのですから、そんなマイナスな記憶の仕方をするよりは、楽しかった記憶ばかりを残しておきたいでしょう。少なくとも、そのほうが思い出したとき楽しいはずです。
それが、実際には仲が良かったのに、記憶はけんかした記憶しか残っていなくて、それで今では昔は仲が悪かったと思い込んでしまっているのだとすると、それはとても悲しいことだと思います。
今、どういうふうに記憶を探ってみても、弟との、昔の仲良くしていた記憶というのはほとんど出てきません。確かに、いわれてみると幼いころはいつも弟と一緒にいた気はしますが、定かではありません。
事実はもはや窺い知れません。けれど真実は人の数だけ存在し、千歳には千歳の真実があります。弟と、ケンカを繰り返した日々。毎日のように泣かし続け、きっと弟の性格がゆがみ気味なのは、少なからず自分に責任があると思い込んでいます。
いまさら、実はけっこう仲の良い兄弟だったと知らされて、どうしてそれを受け入れられるでしょう。だって、そんなことは千歳の記憶には存在しないのですから。
――けれど。
今でも少しだけ、ケンカをしていない記憶がありました。
夜。軽自動車に、家族四人が乗っています。父は運転席で運転し、母は助手席に座って父と話をしています。千歳と弟は後部座席に座っています。
外を見ていた千歳は、夜空に浮かんでいる月に気がつきました。それはまるい、とてもきれいな満月でした。
弟に教えてやろうと隣の席を見ると、さっきまではしゃいでいた弟は、いつの間にか眠りこけていました。
「…………」
千歳は眠ってる弟の頭を、こっそり何度か撫でてあげました。母がクスクスと笑いながら父と何事かを囁きあっています。千歳は弟の寝顔から目を離し、また窓の外の月を眺めます。
三人家族だった頃は一人で占有できていた後部座席は、今では半分だけが自分のものでした。けれど別にそれはいやではありませんでした。車の窓も、片側だけしか自分の自由にはなりませんでしたが、後ろの窓や、千歳の側の窓からは、こうして大好きな月を眺めることが出来ます。後ろの窓からも、自分の側の窓からも月が見えないときは、しかたがないから弟の寝顔を眺めます。
お月様がわりの弟の寝顔と、窓の向こうの月。違うところは、弟の寝顔は、こんなふうに直接触れて、頭を撫でられるということ。

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