そもそも何が悪いのか。この場合の最も確実な悪とはなんなのか。
最近またいじめが問題になっている。
といった書き出しで始まると、今回のテーマは「いじめ」かと思われるかもしれないが実はそうではない。主にテレビ等で、タレントや知識人がたまに「こういう考え方もできるよね」といわんばかりに「いじめられている側にも問題があるんじゃないの」的な発言をするのに対して、俺は非常な怒りを覚えることがある。今もそれに怒りを感じ、突発的にこれを書いている。だってそれは、そんな簡単に発言して良い言葉ではない。
いじめている側と、いじめられている側が一堂に会している状況で、しかもいじめている側が、自らの責任から逃れようと躍起になっている時に、そんな不用意な発言をしたらどうなるか。いじめている側はこれ幸いとばかりに気勢をあげ、いじめられている側は窮地に追い込まれることになるだろう。
ではそれが、発言者の望んだことなのか? せめてそうではないと思いたい。だからこそ、その発言の不用意さに腹が立つ。
「いじめられている側にも問題があるんじゃないの」それは、確かに一つの真実をついてはいると思う。その言葉の持つ意味を完全に否定してしまうのでは、議論に建設的な発展など望めないだろう。ただしそれは、もっとも根本的かつ基本的な問題からは少なからず的をはずしているといわざるを得ない。そのことを発言者は自覚しているのだろうか?
そもそも何が悪いのか。この場合の最も確実な悪とはなんなのか。
それは「いじめている側」であるという事は、絶対的な事実なのである。どのような理由があるにせよ、強者が弱者を一方的に攻撃する事は悪以外のなにものでもない。原始時代や他の独裁主義的な国家ならいざ知らず、少なくとも現代の日本では。そしてそれこそがいじめの定義なのであり、苛めという言葉自体に、すでに悪は内包されているのである。
その「最大の悪」をろくに明確にしていない状態で、弱者の問題点を不用意に指摘する。それはたとえ意図なくしても問題の本質をぼやかす行為に他ならないし、なにか意図があるとすればそれは「問題のすり替え」だとしか思えない。
もちろんいじめられる側にもなにがしかの問題はあるだろう。そしてそれをいうなら学校、先生、いじめている側の生活環境、いじめられている側の生活環境――ひいては社会全体にも問題はある。それらのことを議論するのは「いじめ」という問題を多角的にとらえるためにはむしろ当然・必然といえる。
だがそれらは「いじめという悪」と決して同等ではありはしない。自らの行為の悪を意識し、そのことに真正面からぶつかる機会を加害者に与えておかないまま、決して中核たりえない部分を話し合うことに、どれほどの意味があるだろう。
「痴漢されるのは、あなたの格好とか態度とかにも問題あるんじゃないの」という発言もよく耳にする。一片の紙切れのような軽い言葉が、しかし時には鋭い刃たりえるのだということを、あなたは自覚していますか? そうして生まれた傷に、あなたは責任はとれますか?
TV・ラジオ・インターネット他、あらゆる形のマスメディア――それらにそれなりの立場でもって顔を出す人間は、その時々のテーマの本質くらい、最低限把握した状態で発言して欲しいと思う。あなた方が不用意に口に出した言葉は、こうして少なからず社会に影響を与えているのだから。

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